maru32’s diary

A.B.C-Zが大好き。五関晃一くんが好き。ただ、ただ、それだけ。

ABC座2015の千秋楽で塚ちゃんが言ってくれたことについて

昨日、無事、千秋楽をおえられたそうですね。A.B.C-Zのみなさん、この舞台に関わられたみなさん、観劇されたみなさん、お疲れ様でした。ステキな舞台をありがとうございました。

行かれた方々のレポなどを読みまして、塚ちゃんの発したという言葉に、私は大変救われまして。とても感謝しております件について語らせてください。

 

 

カーテンコールでのA.B.C-Z。この舞台の感想というか総括を求められた塚ちゃんが「人が死ぬって悲しいことだよねー」と言ったのだそうです。

ストーリーの主題はそこじゃなかったかもしれないけど。私はこのストーリーのその部分が一番ひっかかっていたことなので、塚ちゃんの素朴なこのコメントに、とても心があたためられました。

 

まるみつのワタクシゴト語りなのですが。

このストーリーでは「死」が本当に突然現れます。

それはもうあっけにとられるくらいの突然。

私の父も、突然亡くなりました。だから、それは本当に実感としてよくわかるのです。

でも、「生」はそういう訳にはいかなくて、このストーリーのように生き返ることは絶対なくて。

父が亡くなる前の晩、すごく暑い夏の日で、居間でゴロゴロしていた私に、父が「今日は夜になっても蒸すなぁ」と話しかけてきて。暑くて、めんどくさくて、私は返事をしませんでした。その日はそのまま父と言葉を交わすこともなく、翌日、私は会社が休みで朝はゆっくり起きたので、父はもう会社に出かけていて。そして、そのまま職場で倒れて亡くなりました。

プラネッツのフミトは「最後にあいつに言っちゃいけないこと言っちゃった」って後悔していたけど、私は最後に父と交わした言葉は覚えていないのです。無視したことしか覚えてない。私はすごくこのことを悔やんでいて、このことを口に出す(というかブログに書いたんだけど)のはこれが初めてです。

プラネッツのリョウスケは猫のおかげで生き返るけど、うちにいるのは猫ではなくて犬だったせいか、父は生き返りませんでした。うちのたーちゃん()もがんばってお父さんのカオなめてくれたんだけどねぇ。

「失ってみてはじめて気づくこと」はあると思います。リョウスケの死はこのストーリーにどうしても必要だったのかもしれない。けど、やっぱり、うまく言えないけど、とにかくこのリョウスケが死ぬ、という設定は私には受け入れがたいものがありました。

 

この舞台を通して、塚ちゃんが最後に言ってくれたことは、用意されたセリフでもなく、教科書通りのお決まりのセリフでもなく、素朴な、感想でした。

塚ちゃんの言うとおり、人が死ぬのって悲しい。自分が死ぬことよりも、悲しいと思うんです。それは、私自身が、まだ自分の死に直面していないから言えることかもしれません。実際に自分に「死」が襲ってきたら、恐くてたまらないだろうと思う。

でも、なんていうんだろ、自分が死んだらさ、死んじゃうんだからさ、もう、悲しいとかないじゃん、死んだあとは。

でもさ、自分が生きていて、誰かが死んだときはさ、悲しいしさみしいし苦しいし。ついでにいうと、どんなに悲しくても、最終的には元気出さなきゃいけないじゃないですか。それが本当につらいんですよね。私はそれがつらかった。お父さんが死んだことが平気になるのがさみしくてさみしくて、ずっと悲しみにくれていたかった。でも、なんだかんだいって、今日もこんなに元気に生きてます…。

 

えーと、話を戻しますと。

塚ちゃんは、もしかして、お芝居とはいえ、毎日毎日リョウスケが死んじゃうの、すごく悲しんでたのかな、気に病んでたのかなーなんて思うと、私もなの、すごく悲しかった!と塚ちゃんに涙ながらに訴えたくなって。

観劇中は全然泣けてこなかったのに。

だからさ、塚ちゃんが「人が死ぬのって悲しい」って、当たり前のことだけど、わざわざ言ってくれて、うれしかった。みんなは「そこかよ!」ってツッコむところかもしれないけど、私にとっては「そこでしょうよ!」と、「もっと、そこのところ、みんなも噛みしめなさいよ!」と言いたい。

 

うーん、うまく説明できないけど。

 

とにかく、塚ちゃん、ありがとう。

塚ちゃんのおかげで、私のABC2015も、やっと、きれいに締めくくられました。

塚ちゃん、ありがとう。

…泣いちゃったよ、私。